「いつか音楽と呼ばれるものを考える」に対する応答
sany0289-tm.jpg by naotokui
参照:
天才のためのツールとは? (かつて音楽と呼ばれたもの by naotokui)
いつか音楽と呼ばれるものを考える#1 (My Codex Leicester by nagano)
「万人に役に立つ/有用性」の世界と「一万人に一人のため」の世界という切り分け方.薄っぺらい大義と視野狭窄な自己満足.どちらともそれ自体が目的化される事柄ではない.状況認識に過ぎない.ここで考えさせられるのは,「自分のために役に立つ」というスキームがあまり語られていないことだ.自分という地平と他者という地平が相互作用する中間領域を考えずして,「有用性」の議論は行えないのではないだろうか.
「xxxが新しい音楽を作るかどうか」という設問.
CageやOvalが結局は恣意的に曲を「作」っている,ということはコンセプトの次元とパフォーマンスの次元の乖離だろう.不確定性の音楽,skipping,それらはCageやOvalというアイデンティティを説明するものであり得たし,まずは彼ら自身の制作に役に立ったと考えるのが妥当だろう.Oval自身の音楽を指して,それが万人が参照可能な新しい音楽を作ったかと問うのは,Cageに対するBoulezの批判と同じように,「芸術とは何か」と一意的に定義を図ろうとすることと同じように不毛におもえる.つまり,Oval本人とは関係の無い次元でOvalProcessが語られていったわけだが,本当に万人が使えるツールを作ることに興味があったのであれば既にそれを行っているだろう.しかし,彼はそうせずに自身の楽曲を作り続け,そしてDTMソフトは発展し,「初音ミク」やWebwareが登場しているわけだ.それは直線的に語ることはできない.
しかし,「自分で作った飯を自分で食べ続けること」に興味がない「アーティスト」や「表現者」というものはどう捉えられるのか.例えばテルミン博士のように,新しい楽器を作ったならば,他の誰よりもその楽器の演奏を熟達してみることについての考えは,表現者としての骨太度合いを図る分水嶺になるのではないだろうか.もちろん,そればかりに表現者の力量は固定できないだろうが,それは表現者の社会責任とでも呼ぶべき領域に属することなので,別途議論が必要かもしれない.
セザンヌは「印象主義は持続しないといけない」といった.アーティストの仕事は,会場で3分しか保たない感念を作るのではなく,非日常から日常に降りてくるような持続的な感念を作ることにあるのではないか.知覚(perception)から覚念(percept)を抽出する(G.Deleuze)とはそういうことだろう.感情(affection)から感念(affect)を引きずり出してくる.そうして作った感念を世に投げつけること.
それと「いつ音」の議論では,マスのために分解能を上げる話(オープンソースやWikipedia)と,フロンティアのための解像度をあげる話(Monalisa、Sonasphere)がごった煮にされているのが気になった.両者を同次元で語っていては,議論が発展しないだろう.
ref: 分解能/解像度
また,ここは直接音楽制作の話ではないが,制作と聴取を結び得る延長線として:iChatの窓がGoogle=人でググる,という話しはMTurkや人力検索,予測市場などの話の個人版という所で意義深い.個人的にもっと興味があるのが,ググられた人が,ググられたその場その瞬間に,何か見返りを交換に貰うというシステムが成立できないかということ.つまり交易の偏在化.それはここ最近,遠藤拓己と構築しようとしている「発酵系メディア」のスコープにある.
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徳井さんからの煽りとドミニクさんからのトラックバックを受けたので,そろそろ何か書かねばなということで.
(このblogは技術情報以外はほとんど書かないので... [詳しくはこちら]



