分解能/解像度
octobre 01, 2007
分解能と解像度の違いについて考えている。
英語では両方ともresolutionになるが、日本語では対象が明らかに違う。解像度がある処理される情報の属性を指しているのに対して、分解能はその情報を読み解く主体の側に属している。解像度を向上する作業は実験、研究領域で進められ、既存のものよりも豊かな情報をもたらす革新的な技術が社会に普及するためには、その情報の解像度—深さ、広がり、質、等々—を設計するよりは、それを受け取る人間の分解能を向上する方法を設計しなくてはならない。この方法は多様であるはずだ。
現在では、商品というパッケージにまとめて市場に流通させるという方法が主流である。しかし、これは情報の解像度を下げることによって分解能の問題を回避しているに過ぎない。ゆえに、もとの情報からおおくの性質が削ぎ落とされ、少なくない本質がこぼれ落ちる。
もちろんしかし、産業型情報社会とベンクラーが呼んだ20世紀は、それ以前の19世紀と比較した時には驚異的な情報流通の発展を見たわけだ。だから私たちは現状を否定するのではなく、あくまで現状を更新しているという態度をしつこく繰り返す必要がある。
僕たちの生活を一番強く規定するのは経済現象だ。司法や立法は人格を持たない国家利益に駆動され、いまや多国籍企業が国家と対等なほどの覇権を誇っているのだから。
であればこそ、解像度を下げるのでなく、分解能を向上させる方向での情報の伝達は可能なはずだ。
それでも、どうしようもない認知限界があるということをことある毎に叫ぶ人たちがいる。彼らは現状の観察に長けているが、自らはシステムの構築に関わらないので空虚な予言をするしかない。しかし、彼らは自分たち自身が人間の認知限界を自己言及的に体現してしまっていることに気が付かないのだろうか?彼らは諦めと安心を伝道することによって飯を喰らう、高度情報社会に特徴的な司祭だ。
理念とは目的に形を与え、実現に向かうための戦略に過ぎない。それ自体が真となるためには、そのための身体と道具と方法が必要になる。
今回はresolutionを介してrevolution:分解能/解像度を考えてみた。
視覚と聴覚の分解能/解像度についても城一裕と議論したことを続けてみたい。
分解能と解像度の違いについて考えている。
英語では両方ともresolutionになるが、日本語では対象が明らかに違う。解像度がある処理される情報の属性を指しているのに対して、分解能はその情報を読み解く主体の側に属している。解像度を向上する作業は実験、研究領域で進められ、既存のものよりも豊かな情報をもたらす革新的な技術が社会に普及するためには、その情報の解像度—深さ、広がり、質、等々—を設計するよりは、それを受け取る人間の分解能を向上する方法を設計しなくてはならない。この方法は多様であるはずだ。
現在では、商品というパッケージにまとめて市場に流通させるという方法が主流である。しかし、これは情報の解像度を下げることによって分解能の問題を回避しているに過ぎない。ゆえに、もとの情報からおおくの性質が削ぎ落とされ、少なくない本質がこぼれ落ちる。
もちろんしかし、産業型情報社会とベンクラーが呼んだ20世紀は、それ以前の19世紀と比較した時には驚異的な情報流通の発展を見たわけだ。だから私たちは現状を否定するのではなく、あくまで現状を更新しているという態度をしつこく繰り返す必要がある。
僕たちの生活を一番強く規定するのは経済現象だ。司法や立法は人格を持たない国家利益に駆動され、いまや多国籍企業が国家と対等なほどの覇権を誇っているのだから。
であればこそ、解像度を下げるのでなく、分解能を向上させる方向での情報の伝達は可能なはずだ。
それでも、どうしようもない認知限界があるということをことある毎に叫ぶ人たちがいる。彼らは現状の観察に長けているが、自らはシステムの構築に関わらないので空虚な予言をするしかない。しかし、彼らは自分たち自身が人間の認知限界を自己言及的に体現してしまっていることに気が付かないのだろうか?彼らは諦めと安心を伝道することによって飯を喰らう、高度情報社会に特徴的な司祭だ。
理念とは目的に形を与え、実現に向かうための戦略に過ぎない。それ自体が真となるためには、そのための身体と道具と方法が必要になる。
今回はresolutionを介してrevolution:分解能/解像度を考えてみた。
視覚と聴覚の分解能/解像度についても城一裕と議論したことを続けてみたい。





