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Plastic Practice:社会のベンディング

mai 20, 2007

『春秋』2007年1月号『ベンディング』特集掲載記事全文

《「社会」のベンディング〜リアリティの学習を巡って》
"Bending of the Social ~ the learning of reality" (Japanese only)

アフォーダンス概念や生態実在論(るび:エコロジカル・リアリズム)を説いた認知心理学者のジェームズ・ギブソンは,人間の知覚行為を単純な刺激=反応(るび:S-R)の相関に収斂することはできないとした.この提言によれば,例えば眼球が環境内の光線を受光する際、視覚野に情報が伝達され脳が情報処理を行なって人間にとっての「ここは部屋である」や「これは四角い椅子である」といった意味が発生するのではない.環境構造はすでにその中を飛び交う光線群のレイアウトによって,言語的処理を介さない生態的な意味が伝達/検索される.この生態的な意味を持つ情報全般がアフォーダンスと呼ばれ,「この物体は座れる」、「この空間は人間が入る事ができる」といった諸々の可能態を現出させている.これは言語(るび:ロゴス)中心主義を脱却し,身体と思考の補完性を強調する説である.
さて,ギブソンはこの環境のなかには生態的意味が満ち溢れているとする説を展開する際に,私たちの知覚がただ受動的にではなく,常に半ば能動的に作動していると言っている.アクティブ・タッチという言葉はこの事を説明する一つの概念であり,私たちは何かに触れる時,ある反応に強制されてそうするのではなく,その何かを探索する目的を兼ねているという.私たちはつまり,常に自分を取り巻く環境から,生存に役立つ情報を検索しているのみならず,その環境が何であるかを理解しようとしているといえる.生まれた時から死ぬ時まで,知覚は終わらない.その意味で私たちは生命活動が停止するまで,光や匂いや音や手触りを知覚しながら,終わる事のない学習を行なっているといえる.

ベンディングやハッキングとはまさに私たちが日々「知覚」を能動的に行なっている延長線上にある行為である.私たちは人工物や自然の物質をいじり,破壊し,再生させ,組み合わせ,追加したり減らしたりするといった試行錯誤を行ないながら,対象物について学ぶ.知覚についても,注意の重心に意識的になることで,特殊な道具はなくとも環境の受容の在り方を意図的に曲げたり修正したりすることができる.例えば目を瞑って一日を過ごすという行為を通して,聴覚や触覚に依存度を高めたリアリティを経験することができる.逆に言えば,金科玉条のように与えられた,手に届かないものについては,想像することはできても,身体的に知ることはできない.

さて,では次のように問うてみるとしよう.自らの身体の知覚や身の回りの道具,もしくは環境を改造しようとする事.そして社会の構造に働きかけること.この両者の間には通常,大きな隔たりがあるように感じられるだろう.何よりも,「身の回り」という時には,私たちは「私的な」領域を思い浮かべ,「社会」という時には,何やら漠然とした不特定多数の人間の集合をイメージする.しかし,ここに「私的/公的」という二項対立が暗黙の前提としてあるのであるとすれば,私たちは常に次のように自問してみる必要はないだろうか.そもそも,社会的でない個人の在り方,もしくは個人的な動機なく動く社会は存在しえるのか,と.そこで,日常の道具や環境もしくは身体の知覚をベンド(るび:ねじ曲げ)したりハック(るび:改造)したりするというミクロの領域から出発して,最終的に社会や文化といった鵺のような対象をベンド(るび:ねじ曲げ)したりハック(るび:改造)したりするというマクロな領域へと連続的に向かっていけるか,という問題を問いたいと思う.また,副題にある「自由文化(るび:フリーカルチャー)」という語は,万人がベンドしたりハックしたりしながら参加できるような社会構造をイメージしているが,それはつまり万人に対して可塑性の高められた社会であると換言することができる.

ここで言及している公と私の相関ということは,社会学の系譜から言えばとうに議論され続けてきた事であり,何も新しいことを述べているわけではない.ただ,毎日の生活のなかで,身体的なリアリティをもって公と私の中間を結ぶ連続性を感じ取れるかどうか,という事は依然考えられるだろうし,そのような契機がネットワーク情報基盤の整備によって可塑性を高められつつある私たちの社会と文化のなかで醸成されているともいえる.
私たちは近代化を通して,プライベートな空間に対して「自由」や「楽しみ」を投影し,対照的に社会的な時制の中では「規制」や「拘束」、または「法」を経験していると考えてきた.しかし,このような区分が今でも支配的であるかどうかは疑わしい.私的空間に引きこもって報酬のある仕事を行ない,余暇で無報酬の仕事を行なうことによって社会性を回復させるようなライフ・スタイルが今日,可能であることを知っているからだ.それは例えば「ホモ・エコノミクス」というような一元的な類型で個々人の活動を包括することが疑わしいのと同じ意味において,である.

筆者は,この二項対立的な公と私の対置が機能しなくなった最大の理由の一つとして,計算機(るび:コンピュータ)とネットワーク(るび:インターネット)の生活圏への浸透だと「感じて」おり,この変化の本質が私たちの生活圏の「可塑性」の向上であるという仮説のもと,主にオープンソースと呼ばれる文化領域に関する活動や研究を行なっている.それは冒頭に挙げたような齟齬に対する違和感によっても駆動されている.それはまた,個人の身振りを対象とした工学研究と,そうした個々人の身振りが大きくうねりながら集合を形成するものとしての社会構造学の「間」を分節化し,より細かい粒度をもって接続しようとする試みである.

ここでは「可塑性」(るび:plasticity)とは「自由」のような人間の属性ではなく,人間を内包する環境や物体,情報に見て取れる価値であると仮定している.ただし,それは「アフォーダンス」のように,純粋に身体的に即応する行為へとつなげる情報ではなく,その環境や物体,情報をどのように「変化」させられるかという度合いを示すものである.そう,ここで「ベンディング」や「ハッキング」という言葉の持つ価値に近づいてみる事ができる.つまりベンディングやハッキングを行なえる事それ自体が価値であると見なせるのではないか.私たちの文化の価値は,それがどのように可塑的であるかによって決定するのではないだろうか,という問いかけが筆者の命題なのである.

オープンソースとは何かという事について述べておきたい.
リチャード・ストールマンというアメリカのエンジニアは企業におけるプログラム・コードの占有やそれに伴う訴訟などに辟易とし,80年代にフリーソフトウェア財団を形成した.この場合のフリーソフトウェアというのは無料ソフトの意ではなく,自由なソフトを意味している.ではその自由とは何か.ここでストールマンは非常に分かりやすい言葉遊びを行なった.つまりコピーライト(元々の意は字義通り「複製する権利」であった)に対するコピーレフト概念の創出である.英語でrightは権利を意味すると同時に右を意味する.Leftは左を意味すると同時に「放置された」という意味も持つ.つまりコピーレフト的なソフトウェアというものは,誰しもが許諾を得ることなく「自由に」複製したり,その内容を改造したりする事が合法となるように,予め制作者が一定の権利を放棄しておくと同時にその状態を保持させることによって,誰も占有することが出来ないという形質がそれに触れる人間たちの間を伝播していく事を可能にしたのであった.そのコピーレフト概念のもとに設計されたライセンスである一般公衆利用許諾契約書(るび:General Public License)のもとで公開されたストールマンらの基本システムであるGNUは,その後オープンソースという言葉の一つの代名詞となったGNU / Linux(いわゆるリナックス)がリーナス・トーバルズというエンジニアによって開発される事を可能にした,といえる.ストールマンはトーバルズという人間が自身のソフトウェアを改造し,このような形で社会に変革を与えることを予期しただろうか.いや,彼は優秀なパッケージに十分な可塑性を与えたに過ぎず,その結果異なる優秀な人物がそれをベンド/ハックし,異なるパッケージへと変化させていっただけである.そしてGNU / Linuxやその他数多のフリー・オープンソース・ソフトウェア(るび:FOSS)は今日,その可塑性の高さによって,世界中に300万人以上の開発参加者を抱えるオープンソース・コミュニティの形成をもたらし,クローズドに開発されてきたソフトウェア群に均衡する勢力と化した.今やインターネットはFOSSなくして成立しえない基盤として私たちの生活を支えている.

以上のあまりにも有名な例は,可塑性が偶有性と関連している事をも示している.偶有性はある人間がある情報に遭遇する確率の高さだけではなく,遭遇可能な情報タイプの多様性にも関連する.あるネットワークが多くの偶然を孕むには,より多くの情報タイプがネットワークの中を交通していなければならない.可塑性は,ひとつひとつの情報が多様に派生していけるかどうかという属性として捉えることが出来る.
さらに言えば,上記の例の場合,インターネットという情報共有のインフラが無ければ,トーバルズはGNUに触れることが出来なかったかもしれない.つまり,情報の取得可能性(るび:アクセシビリティ)も可塑的な情報文化の重要な要素であるということがいえる.

さて,ストールマンかくして計算機上で実行されるプログラムの取り扱いに関するフレームワークを設計したことになる.それはしかし,コンピュータ・エンジニアの作業効率やセキュリティ構築といった議論に止まらなかった.コピーレフトとは著作権法のハッキングとしてGPLに結実し,それは結果的にはコンピュータを取り巻く共同体に属する人々の慣習や規範に働きかけた.この慣習や規範,そして法を改造して社会を変えるというリアリティを,ソフトウェアだけではなく,情報ネットワーク・インフラおよびに情報財(るび:コンテンツ)の領域に押し広げたのが法学者ヨハイ・ベンクラーによるオープン・スペクトラム(るび→スペクトラム:無線帯域)であり,憲法学者ローレンス・レッシグらが開始したデジタル著作権ライセンスの開発普及プロジェクトであるクリエイティブ・コモンズ(CC)の活動である.CCライセンスはソフトウェアだけではなく,著作権法が支配する文章や映像,楽曲その他のあらゆる表現物の私有と公有を柔軟にし,自己の開示した情報が未知の他者によってベンドされハックされる可能性,つまり可塑性を高める機能を持つ.それは「あらゆる新しい情報の生成は過去の情報の総体によって成立する」という仮説にもとづいて「freedom to tinker(るび:いじる自由)」を標榜し,情報ネットワークを介するあらゆる知的活動における公私の狭間を分節化する試みであり,ネットワークを前提にした生態活動について試行錯誤を続け,理解しようとする運動である.

筆者はクリエイティブ・コモンズの日本事務局において,CCライセンスの翻訳やその情報共有の概念にもとづいたインタフェースやプロジェクトの製作に携りながら,メディアアートと呼ばれる情報技術の先端的な利用を行なう表現領域に関するアーカイブの構築を行なっている.その双方を貫く軸は何かと問われれば,ネットワークと物理世界という未だ分け隔てられているが確実に私たちの生態活動を支えている二つの領域の距離を計り,そのことによって私たちの社会的なリアリティがどのようにベンドされ,ハックされうるのかを身体的に学んでいきたいという好奇の心である.




 
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