検閲を検閲することについて
avril 20, 2007
ARTiTの1月号に美術と検閲についての論考を依頼された.が,ミスコミュニケーションの結果,私が書いた論考は「アジアにおける検閲事例の取材」という特集の趣旨に合わなかったため,残念ながら同誌に掲載されないことになった.小崎編集長の合意のもと、ここにその論考をsalvageすることにする.
Censorship & Contemporary Art: Censor the Censorship
検閲と現代アート:検閲を検閲することについて
Dominick Chenドミニク・チェン
検閲とは,通常の場合,国家権力(司法)が良俗公序に反すると一方的に判断する表現を規制する行為を指す.表現の自由と対比される概念であり,自由な表現を行おうとする人間であるならば闘うべき対象である.そして検閲は国家主体だけではなく,あらゆるハイエラルキーの場に介入し,最終的には個人のなかで「自粛」という自殺行為を引き起こすに至る.このことは依然,強権政治やネットワーク・インフラの不整備などの理由によって情報の自由な公開とそのアクセスが制限される地域では重要な社会問題としてあるムたとえばベトナムにおける役人による強圧と賄賂の慣習、もしくはシンガポールのような政治表現を弾圧する統制主義などが想起できるだろう.
しかし,最初にいささか逆説的な結論から述べよう.アート作品の検閲に対してアートに関わる人間がパブリックに感情的に反応するのは不毛である.なぜならアート表現とは法や権力を対象化できる,より高次元の領域だと考えられるからだ.少なくとも情報へのアクセシビリティの高まっている今日の社会において,アーティストを自称するのであれば,「検閲」という現象を自身の表現コンセプトへと取込み,それを自身の表現戦略に照らし合わせて利用すべきだろう.もしくは検閲を執行する国家そのものと対峙するつもりならば,その闘いに徐々に勝利していくためにも冷静に情況を分析し,適切な戦略を立てるべきだろう.
さらに根源的な問いがある.現代アートにおいて検閲行為は本当に作品にとって外敵なのだろうか,ということである.それは作品の短期的なパブリシティにとってはダメージであっても(展示から外される,など),長期的に見れば作品史の構築に付加価値(スキャンダル性や作品の「過剰さ」「強度」へ繋がるイメージ)を与えるボーナスとなりうるからだ.むしろアート作品にとっての恐怖は,「誰にも」—キュレーターや批評家、観衆はおろか,国家権力にさえも!—見向きもされないことだろう.「より多くの注目を集める」ことが至上命題なのであれば,大いに権力の介入を誘発し,事件を発生させればいい.いや,もちろん,これは悪い冗談の一種である.しかし,権力による検閲以上に問題なのは「検閲」が内面化し,美術関係者などが「自粛」しはじめることである.アーティストでいえば,高峰格一人の例をとっても,横浜美術館における『木村さん』の展示中止やNTT ICCにおける同氏『K.I.T (Being in Touch is Keeping-all-in-Touch)』の公演中止といった事例は,日本においてアートの権能がいかに脆弱であるかを哀しく物語るものだろう.
本題に戻り,繰り返して言おう.アートは既知世界における停滞ではなく,既知外領域を志向するマルチテュード(るび:数多)の運動である.今まで言語によって担われてきたアート批評や美学とは,アート作品によって開示されているが,いまだ言語によって領土化されていない領域を定義=共有しようとする試みである.そうした意味で,アーティストや批評家は国家権力による検閲を個人の名において検閲できる数少ない職能であることを思い出す必要がある.
そうして考えた場合,私たちは今日,検閲という行為を嘲笑い,逆手に取ることができるのではないか.次に挙げる事例からその事を感じ取れるだろう.
直接的な対峙:アントニオ・ムンターダスの『The File Room』(1994-2001)は古今東西の検閲の事例を集めるために設置されたウェブサイトおよびその物理的な展示インスタレーションとして展開された.インターネットというプラットフォームが未開拓の土地であった時代に,監視する主体がその対象によって逆に監視され,その不正(るび:エラー)が記録されてしまうという双方向性を暴いた傑作である.
間接的な矮小化:会田誠の『日本に潜伏中のビン・ラディンと名乗る男からのビデオ』(2005)は,シンガポール・ビエンナーレに出品する際に,当局によって小泉前首相を揶揄する部分をカットされたという.それは会田にとっても予想外のことだったろうが,逆にこの「事件」はもともとセンセーショナルな笑いに満ちたこの作品に過剰に反応する当国の滑稽さを介して作品内の人物が批判した対象のイメージをも矮小化する結果を呼んだとも捉えられる.それは会田作品の系譜における韜晦的批評の権能にも因るだろう.
逆行分析(リバース・エンジニアリング):グラフィティ・アーティストとして活動を開始したBanksyは,常に検閲と向き合って,むしろ自分の作品が検閲され,撤去されることを見据えて表現活動を行なっている.2005年にはパレスチナ自治区のヨルダン川西岸にあるイスラエル・パレスチナ分離壁の上に大きな穴を描き、その中に壁の向こう側に広がる楽園を描いた.最近では米国のディズニーランドに侵入し,ウォータースライド・コースターのコース上にアブグレイブ収容所の囚人を模した,オレンジ色の拘束衣を着せられた等身大の人形を,観客と対峙する形で設置した(『Disneyland』、2006).前者はグラフィティ・アートというメディアが本来持つメッセージ性をニューヨークの街頭から中東紛争の場へ移送し,後者は米国政府の軍事的暴力をグローバルな著作権帝国の庭園に併置させるマッシュアップ行為である.
ソーシャル・ハッキング:The Yes Menは身元詐称(identity theft)の代わりに身元是正(identity correction)という戦略をとる.それは例えばWTO批判を行なう最良の手段としてWTOの代表になりすまし,世界中でスキャンダラスな講演活動を行なうことによって,一連のプロジェクトが各地の新聞やテレビなどのマスメディアによって取り上げられる状況を誘発する,という手法だ.
「死ぬのではない,暗殺があるのみだ」とDeleuzeは生前,哲学の現状について語ったことがある.アートに関しても,同じことがいえる.アートは死んだのではない,ゆるやかな毒殺があるだけだ,と.検閲とは主たる毒の一つであるが(他の毒について読者の想像に任せよう),上に挙げた事例はアートを殺そうとする毒に対してアーティストや作品が煎じた処方箋の一例に過ぎない.私たちも,劇薬とまではいわなくても,ある程度の解毒薬を用意することはできるだろう.
ARTiTの1月号に美術と検閲についての論考を依頼された.が,ミスコミュニケーションの結果,私が書いた論考は「アジアにおける検閲事例の取材」という特集の趣旨に合わなかったため,残念ながら同誌に掲載されないことになった.小崎編集長の合意のもと、ここにその論考をsalvageすることにする.
Censorship & Contemporary Art: Censor the Censorship
検閲と現代アート:検閲を検閲することについて
Dominick Chenドミニク・チェン
検閲とは,通常の場合,国家権力(司法)が良俗公序に反すると一方的に判断する表現を規制する行為を指す.表現の自由と対比される概念であり,自由な表現を行おうとする人間であるならば闘うべき対象である.そして検閲は国家主体だけではなく,あらゆるハイエラルキーの場に介入し,最終的には個人のなかで「自粛」という自殺行為を引き起こすに至る.このことは依然,強権政治やネットワーク・インフラの不整備などの理由によって情報の自由な公開とそのアクセスが制限される地域では重要な社会問題としてあるムたとえばベトナムにおける役人による強圧と賄賂の慣習、もしくはシンガポールのような政治表現を弾圧する統制主義などが想起できるだろう.
しかし,最初にいささか逆説的な結論から述べよう.アート作品の検閲に対してアートに関わる人間がパブリックに感情的に反応するのは不毛である.なぜならアート表現とは法や権力を対象化できる,より高次元の領域だと考えられるからだ.少なくとも情報へのアクセシビリティの高まっている今日の社会において,アーティストを自称するのであれば,「検閲」という現象を自身の表現コンセプトへと取込み,それを自身の表現戦略に照らし合わせて利用すべきだろう.もしくは検閲を執行する国家そのものと対峙するつもりならば,その闘いに徐々に勝利していくためにも冷静に情況を分析し,適切な戦略を立てるべきだろう.
さらに根源的な問いがある.現代アートにおいて検閲行為は本当に作品にとって外敵なのだろうか,ということである.それは作品の短期的なパブリシティにとってはダメージであっても(展示から外される,など),長期的に見れば作品史の構築に付加価値(スキャンダル性や作品の「過剰さ」「強度」へ繋がるイメージ)を与えるボーナスとなりうるからだ.むしろアート作品にとっての恐怖は,「誰にも」—キュレーターや批評家、観衆はおろか,国家権力にさえも!—見向きもされないことだろう.「より多くの注目を集める」ことが至上命題なのであれば,大いに権力の介入を誘発し,事件を発生させればいい.いや,もちろん,これは悪い冗談の一種である.しかし,権力による検閲以上に問題なのは「検閲」が内面化し,美術関係者などが「自粛」しはじめることである.アーティストでいえば,高峰格一人の例をとっても,横浜美術館における『木村さん』の展示中止やNTT ICCにおける同氏『K.I.T (Being in Touch is Keeping-all-in-Touch)』の公演中止といった事例は,日本においてアートの権能がいかに脆弱であるかを哀しく物語るものだろう.
本題に戻り,繰り返して言おう.アートは既知世界における停滞ではなく,既知外領域を志向するマルチテュード(るび:数多)の運動である.今まで言語によって担われてきたアート批評や美学とは,アート作品によって開示されているが,いまだ言語によって領土化されていない領域を定義=共有しようとする試みである.そうした意味で,アーティストや批評家は国家権力による検閲を個人の名において検閲できる数少ない職能であることを思い出す必要がある.
そうして考えた場合,私たちは今日,検閲という行為を嘲笑い,逆手に取ることができるのではないか.次に挙げる事例からその事を感じ取れるだろう.
直接的な対峙:アントニオ・ムンターダスの『The File Room』(1994-2001)は古今東西の検閲の事例を集めるために設置されたウェブサイトおよびその物理的な展示インスタレーションとして展開された.インターネットというプラットフォームが未開拓の土地であった時代に,監視する主体がその対象によって逆に監視され,その不正(るび:エラー)が記録されてしまうという双方向性を暴いた傑作である.
間接的な矮小化:会田誠の『日本に潜伏中のビン・ラディンと名乗る男からのビデオ』(2005)は,シンガポール・ビエンナーレに出品する際に,当局によって小泉前首相を揶揄する部分をカットされたという.それは会田にとっても予想外のことだったろうが,逆にこの「事件」はもともとセンセーショナルな笑いに満ちたこの作品に過剰に反応する当国の滑稽さを介して作品内の人物が批判した対象のイメージをも矮小化する結果を呼んだとも捉えられる.それは会田作品の系譜における韜晦的批評の権能にも因るだろう.
逆行分析(リバース・エンジニアリング):グラフィティ・アーティストとして活動を開始したBanksyは,常に検閲と向き合って,むしろ自分の作品が検閲され,撤去されることを見据えて表現活動を行なっている.2005年にはパレスチナ自治区のヨルダン川西岸にあるイスラエル・パレスチナ分離壁の上に大きな穴を描き、その中に壁の向こう側に広がる楽園を描いた.最近では米国のディズニーランドに侵入し,ウォータースライド・コースターのコース上にアブグレイブ収容所の囚人を模した,オレンジ色の拘束衣を着せられた等身大の人形を,観客と対峙する形で設置した(『Disneyland』、2006).前者はグラフィティ・アートというメディアが本来持つメッセージ性をニューヨークの街頭から中東紛争の場へ移送し,後者は米国政府の軍事的暴力をグローバルな著作権帝国の庭園に併置させるマッシュアップ行為である.
ソーシャル・ハッキング:The Yes Menは身元詐称(identity theft)の代わりに身元是正(identity correction)という戦略をとる.それは例えばWTO批判を行なう最良の手段としてWTOの代表になりすまし,世界中でスキャンダラスな講演活動を行なうことによって,一連のプロジェクトが各地の新聞やテレビなどのマスメディアによって取り上げられる状況を誘発する,という手法だ.
「死ぬのではない,暗殺があるのみだ」とDeleuzeは生前,哲学の現状について語ったことがある.アートに関しても,同じことがいえる.アートは死んだのではない,ゆるやかな毒殺があるだけだ,と.検閲とは主たる毒の一つであるが(他の毒について読者の想像に任せよう),上に挙げた事例はアートを殺そうとする毒に対してアーティストや作品が煎じた処方箋の一例に過ぎない.私たちも,劇薬とまではいわなくても,ある程度の解毒薬を用意することはできるだろう.





