言葉のmashup :既知外領域へ [02]
mars 16, 2007
私はHeideggerのいう「言語は存在の家である」という言葉や、Lacanによる象徴界・想像界・現実界の象限分けに影響されているし、(不幸にも)西洋的弁証法を義務教育レベルで叩き込まれてもいる.言語は数多ある情報伝達手段(メディア)のなかの一つのツールに過ぎないが、人間の生態的実在が視覚により大きく依存しているように、私たちの社会活動は未だに言語に大きく依存しているといえるだろう(神経接続が実現しない限りにおいて、ではあるが).その意味で、言語で理解できる世界は既知内領域であるといえる.自分を取り巻くある「事」を、言語というある程度抽象的な道具で表現できたり再表現できたりすれば、それ以外のメディアを利用する必然性はない.
しかし人間は何事も言語以外のモダリティで思いつき、表現をはじめる.それが芸術や哲学と呼ばれる領域の前衛的な価値である.Deleuzeは「芸術家はaffect(感性的リアリティ)を想造し、哲学者はconcept(悟性的リアリティ)を想造する」と言った.しかし、芸術家は言語を使ってconceptを伝えるし、哲学者も絵画や映像や音楽におけるaffectを参照するように、または生態的実在が視覚以外の感覚との連動によって成立し、言語伝達においてもgestureや音韻に加えてPowerPointやKeyNoteを利用することによって「かろうじて」成立している.この多様なモダリティが混在して「かろうじて成立している」共通理解項の総体が、私たちが共有する既知内領域であるといえる.ある前衛的な芸術作品が発表当時には社会的な理解を得られなかった事例を私たちは多く知っているが、今日までの時間をかけた研究者や歴史家、批評家の仕事を通して私たちはそれらを理解することが出来るのは、既知内領域に取り込まれているからだ.
では哲学者や芸術家の役割は何かと問われれば、私は「既知外領域」を定義・想造することだと考えている.地図を作ること、と言い換えてもいいかもしれない.中世西洋の世界地図などの上に、既知外領域は「Terra Incognita」(未知の土地)と書き込まれていた.そして重要なことは、既知外領域は既知内領域と思われているもののなかにも探索できることが多いということだろう.再びDeleuzeに戻れば、領土化・脱領土化・再領土化のサイクルと同義とみなせる.例えば,彼自身がNietzcsheの重要な仕事の一つとして見なしたことに、ユダヤの民における「司祭」という人物を抽出し、その「人々を神への負債によって統治する」というシステム的機能をコンセプト化し、後のキリスト教的牧師の「人の代わりに身を呈したキリストへの無限の負債」へと受け継がれるという系譜を見出し、その「悲しみ」に基づく政治システムの巧妙さに驚嘆しつつも批判したことにある.この時代背景には、産業革命がある程度浸透し、国民国家が生まれ、宗教をより客観的に研究できる社会が19世紀に現れていたことも考慮されるだろう.この境界線を引く事によって,Nietzscheは更なる既知外領域を目指そうとした.これと同じ様に、20世紀前半においてデュシャンは美術館に市販の便器を持ち込み、それを《泉》と題してready made作品として展示しようとすることによって美術作品を巡る既存の通念を想造的に破壊したことは周知の通りだろう.
同じ様に、ネットワーク偶有性やオープン・ソースの価値というものは既知外領域に接続されなくてはならない.それを一方的な憧憬の対象ではなく、得体の知れない恐怖や嫌悪の対象でもなく,じっくりと見据えてみる.
私はHeideggerのいう「言語は存在の家である」という言葉や、Lacanによる象徴界・想像界・現実界の象限分けに影響されているし、(不幸にも)西洋的弁証法を義務教育レベルで叩き込まれてもいる.言語は数多ある情報伝達手段(メディア)のなかの一つのツールに過ぎないが、人間の生態的実在が視覚により大きく依存しているように、私たちの社会活動は未だに言語に大きく依存しているといえるだろう(神経接続が実現しない限りにおいて、ではあるが).その意味で、言語で理解できる世界は既知内領域であるといえる.自分を取り巻くある「事」を、言語というある程度抽象的な道具で表現できたり再表現できたりすれば、それ以外のメディアを利用する必然性はない.
しかし人間は何事も言語以外のモダリティで思いつき、表現をはじめる.それが芸術や哲学と呼ばれる領域の前衛的な価値である.Deleuzeは「芸術家はaffect(感性的リアリティ)を想造し、哲学者はconcept(悟性的リアリティ)を想造する」と言った.しかし、芸術家は言語を使ってconceptを伝えるし、哲学者も絵画や映像や音楽におけるaffectを参照するように、または生態的実在が視覚以外の感覚との連動によって成立し、言語伝達においてもgestureや音韻に加えてPowerPointやKeyNoteを利用することによって「かろうじて」成立している.この多様なモダリティが混在して「かろうじて成立している」共通理解項の総体が、私たちが共有する既知内領域であるといえる.ある前衛的な芸術作品が発表当時には社会的な理解を得られなかった事例を私たちは多く知っているが、今日までの時間をかけた研究者や歴史家、批評家の仕事を通して私たちはそれらを理解することが出来るのは、既知内領域に取り込まれているからだ.
では哲学者や芸術家の役割は何かと問われれば、私は「既知外領域」を定義・想造することだと考えている.地図を作ること、と言い換えてもいいかもしれない.中世西洋の世界地図などの上に、既知外領域は「Terra Incognita」(未知の土地)と書き込まれていた.そして重要なことは、既知外領域は既知内領域と思われているもののなかにも探索できることが多いということだろう.再びDeleuzeに戻れば、領土化・脱領土化・再領土化のサイクルと同義とみなせる.例えば,彼自身がNietzcsheの重要な仕事の一つとして見なしたことに、ユダヤの民における「司祭」という人物を抽出し、その「人々を神への負債によって統治する」というシステム的機能をコンセプト化し、後のキリスト教的牧師の「人の代わりに身を呈したキリストへの無限の負債」へと受け継がれるという系譜を見出し、その「悲しみ」に基づく政治システムの巧妙さに驚嘆しつつも批判したことにある.この時代背景には、産業革命がある程度浸透し、国民国家が生まれ、宗教をより客観的に研究できる社会が19世紀に現れていたことも考慮されるだろう.この境界線を引く事によって,Nietzscheは更なる既知外領域を目指そうとした.これと同じ様に、20世紀前半においてデュシャンは美術館に市販の便器を持ち込み、それを《泉》と題してready made作品として展示しようとすることによって美術作品を巡る既存の通念を想造的に破壊したことは周知の通りだろう.
同じ様に、ネットワーク偶有性やオープン・ソースの価値というものは既知外領域に接続されなくてはならない.それを一方的な憧憬の対象ではなく、得体の知れない恐怖や嫌悪の対象でもなく,じっくりと見据えてみる.





