幽閉者・消失者・媒介者 〜 足立正生監督《幽閉者—テロリスト》への反応として
février 12, 2007
足立正生監督《幽閉者—テロリスト》を観て、大いに触発されたので、足早に反応を返してみる。
中平卓馬が70年代後半に記憶をなくし、80年代にはいってから70年代の友人たちに電話をし、「安保(闘争)はどうなってる?」と聞いていたらしい。安保闘争の失敗と終了の記憶をもたない中平からの質問にたいして、それを生き、残った芸術家たちは応答に困っただろう。
大きな物語が崩壊し、資本主義によって細分化される歴史におおわれていった70年代以降を中東で過ごした足立はどのような思いで日本に帰ってきたのだろう。
監獄のなかでの主人公Mの多様な心像風景が大友良英プロデュースの音楽(何よりも全編に散りばめられた飴屋法水の作ったという奇妙なスクラッチ音)に引き立てられて、DV撮影の生々しい映像の質感が、低予算のセットに代替現実的なリアリティを付しているように見えた。
パレスチナの地で日本赤軍のスポークスパーソンとして30年以上過ごした監督が、日本に強制送還されて5年が経ち、日本で作られた本作は、何を発信しているのか。リッダ闘争の英雄としての岡本公三という左翼的主題に、幽閉者という普遍的な状況を示唆するコンセプトを重ね合わせ、30年の隔離を超越するように現代の人間に問いかけを発する。およそ平凡に言ってしまえばそういう事なのだろう。しかし、それは色々な意味で絶大な困難を要する作業だ。まず、政治の季節の終焉なるものを体験していない現在の20代はおろか10代の人間たちにとって、パレスチナの解放闘争に日本赤軍が関与したという事実は周知のものではない。そして不可視のコントロールが進行している現代先進国において、Mが経験するような権力による物理的な監禁と拷問という主題は、かろうじていじめや虐待といった個々の共同体内部の問題と接続しえているに過ぎないだろう。
ただ、パレスチナ問題は今もなお根深く続いているし、合衆国によるイラクの植民地化の破綻は現在進行形の問題である。合衆国追随のベクトルで進行するナショナリズムの奨励と資本の非倫理的論理の徹底といった今日の状況は、70年代と断絶していないということはできないか。
足立正生は、30年のブランクを埋めるために様々な翻訳を試みようとしている。たとえば頭脳警察のPANTA演ずるブランキと思わしき「肖像人物」が、「自分探し」を否定する箇所などは足立自身の独白にも聞こえる。また、大友良英とその仲間たちによる音楽はそれだけで集客力になる。また、これは強引のそしりを免れない連想かも知れないが、独白の多い役を田口トモロヲに任せることはNHK「プロジェクトX」に対する皮肉、もしくはオーバーライドしようとする戦略なのだろうか(つまり「もう一つのプロジェクトX—パレスチナ解放に身を賭した日本人たち」といったように)。いや、これは悪い冗談ではなく、重信房子の逮捕がメディアによって無視され、公衆によって忘却されるという時代においては重要なover-ride strategyとして純化されうる手法だろう(The Yes Menをみよ)。
つまり、1971年秋に上映された《赤軍—PFLP・世界戦争宣言》がそうであったように、《幽閉者》も、その言葉の正しい意味で、プロパガンダとして了解されなければならないのではないか。ブランキの《天体による永遠》原著の表紙のオーバーラップ、アントニオ・ネグリの登場といったどだい現代の公衆に伝達不可能なメッセージを盛り込むのであれば、それを徹底する他ないのだ。日本に生きる20代のひとりとしての意見を言えば、この《幽閉者》はそれ単体においては、その戦略を十分に展開できていないと言わざるを得ない。
それは、例えば、下記のテクストの圧倒的事実性からいっても、そうである:
...現実における悲劇とは、イスラエルの政治が若いパレスチナ人たちを個人的な英雄主義的行為へと駆り立てていることだ。民族解放という大義のため、みずからの生命を犠牲にすること。もっとも彼らの行為は結果として、イスラエルに利用されるばかりである。抑圧がより強くなり、パレスチナ人殺害がいっそう多くなるだけなのである。
(p55 Rami Livneh, イスラエルからの視点, 《幽閉者テロリスト》リンディホップ・スタジオ編、愛育社)
英雄としての受難者は、思想アイコンとしても弱い時代である。
もちろん、劇中のMは解放された後に、「みんな、もういいんだよ!芝居は止めようと言ったろ!もういいんだよ、もういい...もういいんだ...そんなに、みんな優しく慰め合うことはいらないんだ!」と、慎重に自分に付されているヒロイズムを退けようとしている。ここで、全編に渡って挿入されている、意識の片隅を引っ掻きつづけるノイズの作者である飴屋法水の《バ ング ント》展(バニッシング・ポイント、消失点の意)を思い出さない訳にはいかない。2005年8月に六本木のP-Houseでの同展において、飴屋は、まるでMが幽閉されていた金属の箱より少しだけ大きいほどの寸法の白い箱のなかで、二週間に渡って自ら外界との交信を絶って過ごした。所有、土地、顔、名前、さまざまな環境世界の構成素を次々と消滅させてみせ、ついには作者自身の社会的存在を消失させるという狂気じみたパフォーマンス。しかしここに多くの現代人が、野次馬めいた興味も含めて、少なくない関心を寄せたことは注目に値するだろう。
飴屋—〈9.11〉はテレビで見てたんだけど、当時の僕は日々の仕事に追われ、何もコミットする気が起こらなかった。ただ、ビルが消えたこと、もうそこに建っていないということが、その後じわじわじわじわきた。何かのモニュメントが建っちゃうことよりも、ポッカリ何もない空間が訴えてくるもの。青空...ただ、〈9.11〉にせよ、その後の戦争にせよ、椹木さんがやった「殺す・な」のデモとかに僕はリンクできなかった...(中略)
伊藤ガビン—自爆テロに関してはどうでしょう?
飴屋ーいかなる理由にせよ、かなりの人が命がけでああいうことをやりつづけている現象に対して違和感はたまってたと思います。その違和感に対し、別の消去テロを提示するかたちで、ようやく自分なりにコミットできるような気がしたということだと思う。漠然と。。。でしたけど。
(pp176-177 美術手帖 2005 Vol.57 No.871)
岡本太郎の筆画「殺す・な」を旗頭にして、イラク反戦デモを行なった椹木とその仲間たちの普遍性を標榜するパフォーマンスと、飴屋の飽くまで個人的な感覚と経験からの出発点は、危険性のレベルからも、意味論的なレベルからも対照的である。こうしてアーティストは箱のなかで、身体的というよりは精神的な危機を経験する。
飴屋ー(前略)10日め過ぎる頃かな、精神的にはいちばんきつかった。
伊藤ガビン—どういう意味で?
飴屋ー幻覚か夢か、ちゃんとしていない状態。箱の中にいるのか、箱の外、つまり展覧会会場にいるのか。。。場所や方角も。。。ここに壁があって、この壁の中に自分がいて、といったことがわからなくなった。大きな時間軸が狂い始めて、いまが会期中なのか展覧会前なのかすらわからなくなって。(中略)
(pp178-179 美術手帖 2005 Vol.57 No.871)
幽閉者のMもまた、拷問が日常化する過程で「混乱してる...俺が、俺じゃなくなって行く...」「俺は、俺であることを止めようとしているのか。もはや、俺は何者でもないのか」「俺が俺でなければ、俺は、何者でもない...」といった独白を続けることになる。まだ「時間軸の狂い」は、歴史の終焉というベクトルが資本によって強化される今日の社会光景のなかでは非常にアクチュアルな問題である。一方では、イスラエルの独房に権力によって幽閉されているM、一方で東京のホワイトスペースの安全圏内で白い箱に自主的に引きこもり、自己消失を計る飴屋。この両者のあいだには、足立にとっての30年間の日本という空白を埋めるヒントがあるはずだ。
例えば四方田犬彦による次の指摘は当然ながら示唆的だ:
...宗教的な法悦とか恍惚の体験とか、狂気スレスレのところでいろんな妄想や幻が出てきて、その中で修行を積むわけです。でも、当時は彼らのことを狂気と呼ばなかった。宗教が保証してくれたから、それは修行と呼ばれたわけです。ところが今は宗教のシステムが崩れちゃったから、昔は修行といわれたものが病気だといわれてしまう。
(p32 四方田犬彦, 《幽閉者テロリスト》リンディホップ・スタジオ編、愛育社)
国家=資本は、人口単位である諸個人が勝手に修行することは望まない。ただ、生=政治(bio-politique)体として培養するために、教育システムにナショナリズムを刷り込ませることは称揚するし、その過剰化する教育競争からこぼれ落ちる個性には関心を払わない。これは日本でもフランスでも合衆国でも同様の事態が共時的に存在している。反社会的存在が限りなく存在し得なくなり、代わりに脱社会的な吹き溜めがかろうじてネットを中心に群生している状況。しかし、飴屋のパフォーマンスはただただ脱社会的な修行=病気なだけなのだろうか。違うだろう。飴屋自身が「消去テロ」といみじくも言うように、それは既存の価値領域の全体(それは自爆テロ行為者と国家テロ行為者の双方を含む)に対して異議、というよりは異化を唱えるオルタナティブとしての行為のひとつとして捉えられなければならないのではないか。それは例えば大友克洋《童夢》→《AKIRA》やいがらしみきお《SINK》、岩明均《七夕の国》における空間の無化の描写といった無方向な脱社会的拒否、としてではなく、美術というコミュニケーション領域の倫理性の範囲内で、最低限の受容者の存在をギリギリに信じて粛々と提示される肯定、として。ただ、これはDutch Lifeシリーズを通して、常にラディカルなメッセージを提示し続けた飴屋法水の名人芸として、奇特の眼を集めるショーに過ぎないというのもまた事実である。飴屋が明日本当に消失したとして、飴屋が図らずとも蒔こうとした種子は再現されることなく、あっさり死に絶えるだろう。アーティストの行為が受け継がれるように、違う環境や文脈のなかで再現されるようになるにはどうすればよいのだろうか。
そして、「俺は、ここに居続ける。それが俺の原点を保証する。俺は俺をコピーし続け、その俺のコピーが無数のコピーと解け合い、新しいマグマになっていく...」というMの最終の台詞。この部分は、
人間はここではないどこかを求めるのが現実ですから、ここではないどこかをここに読み替えることが一般化してくればやはり閉塞してくるし、つまらなくなってくる。
(p223 宮台真司と土屋豊の対談, 《幽閉者テロリスト》リンディホップ・スタジオ編、愛育社)
という指摘のとおり、現代におけるアクチュアルな感覚としては修行であるとか、それこそオウム真理教的/セカイ系的な自己=世界の同化言説に回収されてしまう危険性があることは注意するべきだろう。
しかし、これは神山健治監督の《攻殻機動隊—Solid State Society》における高齢化社会と次世代の解放という主題と接続しえる箇所として見なせるのではないだろうか。士郎正宗独特のサイバー・リアリズムを神山が手がけた三作とも、テロリストを主題にしており、第一作(Stand Alone Complex)では笑い男と呼ばれるハッカー、第二作(S.A.C. Second Gig)では電脳ハブと化すことによって群衆の抵抗運動を指揮するが国家に操作されていた男クゼを描いた。そして第三作では、草薙素子という主人公自身のオルター・エゴ、つまり派生人格としての叛乱官僚が「傀儡使い」を名乗り、税金の自動吸収システムと化した高齢者介護ネットをハックし、児童虐待の被害者である子供たちを大量に誘拐し、国家による洗脳から保護するために、ただ死を待つのみの動物と化した老人たちに対する生存理由として送り込むという大規模犯罪を、違法性と倫理性の狭間で見事に描いている。(ちなみに第ニ作は、外国人難民の群衆があくまで被操作対象としてのみ描かれている点、原作との不毛な円環構造などによって反動的な駄作だと筆者は以前ユリイカで評したが、この第三作の独創性に対しては敬意を表したい)
傀儡使い—今までに多くの意思と並列化をしてきたんだ。集団的深層無意識が一人歩きしはじめても、おかしくはない。これでソリッド・ステイト(素子)は完成する。我々は消滅する媒介者となって次のソサイエティーに介入していこう。
(《攻殻機動隊SolidStateSociety》)
ここには、被操作対象の、脱社会化するほかない諸個人の現在のステイタスの先が言及されている。官僚が国粋主義者である政治家ムライの陣中に忍び込み、内部から国家システムをハックするというテロリズム。
実は誘拐されていた子供たちは児童虐待の犠牲者であり、主人公たちが属する公安9課の捜査はかえって子供たちが危険な親元に返されてしまうという転倒も描かれている。つまりこのテロリズムはただただ国家に対するテロル=恐怖であり、誘拐というれっきとした犯罪行為を介してであれ、子供たちを国粋洗脳システムから保護し、もはや財産を国家に没収されるのを待つだけとなった半死体の介護ネット老人たちに再度社会へのコミットメントの契機を与えるという倫理性に貫かれている、新種のものではないだろうか。素子によって構成される空間—広義でのネットワーク—がまだまだ倫理的な可塑性に満ち溢れていることを、このような両義的緊張感によって描いている作品はまだ他に知らない。
足立がもろもろの危険を承知で幽閉者のヨミに「テロリスト」と当てたのは、彼がテロリストと呼ばれる人々に見てとる正当性の回復を期待してこそのことであるのは心情としては理解できる。だが、その一般公衆を死へと巻き込むことも包括するリアリティは、良くも悪しくも平和の温室に育った現代人には届かない。その意味で、神山が暗黙理に行なっているテロリズムの再定義にこそ現代人にはリアリティが生じるのだ。
だから、《幽閉者》のなかで足立正生が標榜するようなアナーキズムは、
もともと権力をきらう個性は、画一性のなかにのみこまれることをこのまない個性なのだ。そういう個性が革命の戦場からはなれたとき、つよい個人となって生きつづける。つよい個人とは、孤立して生きうる個人である。孤立して生きうる個人というものは、現代社会ではほとんど不可能である。わずかに、すでに確固たる地位を得た芸術家、自営農、浮浪人が、それにあたる。
個人主義的アナーキズムは今日、それらの人の思想である。
(《アナーキズム 現代日本思想大系》、筑摩書房1964年刊、日本のアナーキズム・解説 松田道雄)
というものから、孤立を生まない可塑性の倫理性へと更新されなければならない。「確固たる地位を得た芸術家」による名人芸や孤立を称賛してはいけない。同時に浮浪人としての脱社会的存在を標榜しても死に細るだけだろう。
《攻殻機動隊 Solid State Society》の主人公は最後にこう漏らす:
規範のなかにいるときはそれを窮屈と感じるけど、規範なき行為はまた行為として成立しない。結局、堂々巡り。
(《攻殻機動隊SolidStateSociety》)
むしろ、情報空間のなかでオートポイエティックな自営農(別所で展開予定)に成るにはどうすればよいのか。幽閉しようとする力に抗い、消失の欲望に抗い、媒介の悦びを増幅する、確定記述ネットのデータベースならぬ固有なプロクロニズムのアーカイヴとしての諸個人。全面的な情報戦という戦場において、プロパガンダという言葉は芸術という概念と共に日常化されるだろう。いずれにせよ、今後のネット自営農者が開墾しようとするコモンズは、広大である。
* 客観的にいって、この映画のDVDがそれほど売れるとは到底思えない。そこで、(数世代下の人間の)老婆心から、《幽閉者》のような低予算だが強度のあり、重要なフィルムは、それこそDVD販売への導線として、ネット上でクリエイティブ・コモンズのような適当なデジタル著作権ライセンスを付与した上で全編ダウンロード公開されてこそ、その核心が広く散種され、派生していくことだろう。このリアリティはしかし、古い体質の映画製作者たちに伝わるだろうか。
* この作品に併せて《チョムスキーとメディアーマニュファクチュアリング・コンセント》(や坂本龍一が曲を提供した《チョムスキー9.11》)と並列で観ることも興味深いことであろうことを付記する。
足立正生監督《幽閉者—テロリスト》を観て、大いに触発されたので、足早に反応を返してみる。
中平卓馬が70年代後半に記憶をなくし、80年代にはいってから70年代の友人たちに電話をし、「安保(闘争)はどうなってる?」と聞いていたらしい。安保闘争の失敗と終了の記憶をもたない中平からの質問にたいして、それを生き、残った芸術家たちは応答に困っただろう。
大きな物語が崩壊し、資本主義によって細分化される歴史におおわれていった70年代以降を中東で過ごした足立はどのような思いで日本に帰ってきたのだろう。
監獄のなかでの主人公Mの多様な心像風景が大友良英プロデュースの音楽(何よりも全編に散りばめられた飴屋法水の作ったという奇妙なスクラッチ音)に引き立てられて、DV撮影の生々しい映像の質感が、低予算のセットに代替現実的なリアリティを付しているように見えた。
パレスチナの地で日本赤軍のスポークスパーソンとして30年以上過ごした監督が、日本に強制送還されて5年が経ち、日本で作られた本作は、何を発信しているのか。リッダ闘争の英雄としての岡本公三という左翼的主題に、幽閉者という普遍的な状況を示唆するコンセプトを重ね合わせ、30年の隔離を超越するように現代の人間に問いかけを発する。およそ平凡に言ってしまえばそういう事なのだろう。しかし、それは色々な意味で絶大な困難を要する作業だ。まず、政治の季節の終焉なるものを体験していない現在の20代はおろか10代の人間たちにとって、パレスチナの解放闘争に日本赤軍が関与したという事実は周知のものではない。そして不可視のコントロールが進行している現代先進国において、Mが経験するような権力による物理的な監禁と拷問という主題は、かろうじていじめや虐待といった個々の共同体内部の問題と接続しえているに過ぎないだろう。
ただ、パレスチナ問題は今もなお根深く続いているし、合衆国によるイラクの植民地化の破綻は現在進行形の問題である。合衆国追随のベクトルで進行するナショナリズムの奨励と資本の非倫理的論理の徹底といった今日の状況は、70年代と断絶していないということはできないか。
足立正生は、30年のブランクを埋めるために様々な翻訳を試みようとしている。たとえば頭脳警察のPANTA演ずるブランキと思わしき「肖像人物」が、「自分探し」を否定する箇所などは足立自身の独白にも聞こえる。また、大友良英とその仲間たちによる音楽はそれだけで集客力になる。また、これは強引のそしりを免れない連想かも知れないが、独白の多い役を田口トモロヲに任せることはNHK「プロジェクトX」に対する皮肉、もしくはオーバーライドしようとする戦略なのだろうか(つまり「もう一つのプロジェクトX—パレスチナ解放に身を賭した日本人たち」といったように)。いや、これは悪い冗談ではなく、重信房子の逮捕がメディアによって無視され、公衆によって忘却されるという時代においては重要なover-ride strategyとして純化されうる手法だろう(The Yes Menをみよ)。
つまり、1971年秋に上映された《赤軍—PFLP・世界戦争宣言》がそうであったように、《幽閉者》も、その言葉の正しい意味で、プロパガンダとして了解されなければならないのではないか。ブランキの《天体による永遠》原著の表紙のオーバーラップ、アントニオ・ネグリの登場といったどだい現代の公衆に伝達不可能なメッセージを盛り込むのであれば、それを徹底する他ないのだ。日本に生きる20代のひとりとしての意見を言えば、この《幽閉者》はそれ単体においては、その戦略を十分に展開できていないと言わざるを得ない。
それは、例えば、下記のテクストの圧倒的事実性からいっても、そうである:
...現実における悲劇とは、イスラエルの政治が若いパレスチナ人たちを個人的な英雄主義的行為へと駆り立てていることだ。民族解放という大義のため、みずからの生命を犠牲にすること。もっとも彼らの行為は結果として、イスラエルに利用されるばかりである。抑圧がより強くなり、パレスチナ人殺害がいっそう多くなるだけなのである。(p55 Rami Livneh, イスラエルからの視点, 《幽閉者テロリスト》リンディホップ・スタジオ編、愛育社)
英雄としての受難者は、思想アイコンとしても弱い時代である。
もちろん、劇中のMは解放された後に、「みんな、もういいんだよ!芝居は止めようと言ったろ!もういいんだよ、もういい...もういいんだ...そんなに、みんな優しく慰め合うことはいらないんだ!」と、慎重に自分に付されているヒロイズムを退けようとしている。ここで、全編に渡って挿入されている、意識の片隅を引っ掻きつづけるノイズの作者である飴屋法水の《バ ング ント》展(バニッシング・ポイント、消失点の意)を思い出さない訳にはいかない。2005年8月に六本木のP-Houseでの同展において、飴屋は、まるでMが幽閉されていた金属の箱より少しだけ大きいほどの寸法の白い箱のなかで、二週間に渡って自ら外界との交信を絶って過ごした。所有、土地、顔、名前、さまざまな環境世界の構成素を次々と消滅させてみせ、ついには作者自身の社会的存在を消失させるという狂気じみたパフォーマンス。しかしここに多くの現代人が、野次馬めいた興味も含めて、少なくない関心を寄せたことは注目に値するだろう。
飴屋—〈9.11〉はテレビで見てたんだけど、当時の僕は日々の仕事に追われ、何もコミットする気が起こらなかった。ただ、ビルが消えたこと、もうそこに建っていないということが、その後じわじわじわじわきた。何かのモニュメントが建っちゃうことよりも、ポッカリ何もない空間が訴えてくるもの。青空...ただ、〈9.11〉にせよ、その後の戦争にせよ、椹木さんがやった「殺す・な」のデモとかに僕はリンクできなかった...(中略)
伊藤ガビン—自爆テロに関してはどうでしょう?
飴屋ーいかなる理由にせよ、かなりの人が命がけでああいうことをやりつづけている現象に対して違和感はたまってたと思います。その違和感に対し、別の消去テロを提示するかたちで、ようやく自分なりにコミットできるような気がしたということだと思う。漠然と。。。でしたけど。(pp176-177 美術手帖 2005 Vol.57 No.871)
岡本太郎の筆画「殺す・な」を旗頭にして、イラク反戦デモを行なった椹木とその仲間たちの普遍性を標榜するパフォーマンスと、飴屋の飽くまで個人的な感覚と経験からの出発点は、危険性のレベルからも、意味論的なレベルからも対照的である。こうしてアーティストは箱のなかで、身体的というよりは精神的な危機を経験する。
飴屋ー(前略)10日め過ぎる頃かな、精神的にはいちばんきつかった。
伊藤ガビン—どういう意味で?
飴屋ー幻覚か夢か、ちゃんとしていない状態。箱の中にいるのか、箱の外、つまり展覧会会場にいるのか。。。場所や方角も。。。ここに壁があって、この壁の中に自分がいて、といったことがわからなくなった。大きな時間軸が狂い始めて、いまが会期中なのか展覧会前なのかすらわからなくなって。(中略)(pp178-179 美術手帖 2005 Vol.57 No.871)
幽閉者のMもまた、拷問が日常化する過程で「混乱してる...俺が、俺じゃなくなって行く...」「俺は、俺であることを止めようとしているのか。もはや、俺は何者でもないのか」「俺が俺でなければ、俺は、何者でもない...」といった独白を続けることになる。まだ「時間軸の狂い」は、歴史の終焉というベクトルが資本によって強化される今日の社会光景のなかでは非常にアクチュアルな問題である。一方では、イスラエルの独房に権力によって幽閉されているM、一方で東京のホワイトスペースの安全圏内で白い箱に自主的に引きこもり、自己消失を計る飴屋。この両者のあいだには、足立にとっての30年間の日本という空白を埋めるヒントがあるはずだ。
例えば四方田犬彦による次の指摘は当然ながら示唆的だ:
...宗教的な法悦とか恍惚の体験とか、狂気スレスレのところでいろんな妄想や幻が出てきて、その中で修行を積むわけです。でも、当時は彼らのことを狂気と呼ばなかった。宗教が保証してくれたから、それは修行と呼ばれたわけです。ところが今は宗教のシステムが崩れちゃったから、昔は修行といわれたものが病気だといわれてしまう。 (p32 四方田犬彦, 《幽閉者テロリスト》リンディホップ・スタジオ編、愛育社)
国家=資本は、人口単位である諸個人が勝手に修行することは望まない。ただ、生=政治(bio-politique)体として培養するために、教育システムにナショナリズムを刷り込ませることは称揚するし、その過剰化する教育競争からこぼれ落ちる個性には関心を払わない。これは日本でもフランスでも合衆国でも同様の事態が共時的に存在している。反社会的存在が限りなく存在し得なくなり、代わりに脱社会的な吹き溜めがかろうじてネットを中心に群生している状況。しかし、飴屋のパフォーマンスはただただ脱社会的な修行=病気なだけなのだろうか。違うだろう。飴屋自身が「消去テロ」といみじくも言うように、それは既存の価値領域の全体(それは自爆テロ行為者と国家テロ行為者の双方を含む)に対して異議、というよりは異化を唱えるオルタナティブとしての行為のひとつとして捉えられなければならないのではないか。それは例えば大友克洋《童夢》→《AKIRA》やいがらしみきお《SINK》、岩明均《七夕の国》における空間の無化の描写といった無方向な脱社会的拒否、としてではなく、美術というコミュニケーション領域の倫理性の範囲内で、最低限の受容者の存在をギリギリに信じて粛々と提示される肯定、として。ただ、これはDutch Lifeシリーズを通して、常にラディカルなメッセージを提示し続けた飴屋法水の名人芸として、奇特の眼を集めるショーに過ぎないというのもまた事実である。飴屋が明日本当に消失したとして、飴屋が図らずとも蒔こうとした種子は再現されることなく、あっさり死に絶えるだろう。アーティストの行為が受け継がれるように、違う環境や文脈のなかで再現されるようになるにはどうすればよいのだろうか。
そして、「俺は、ここに居続ける。それが俺の原点を保証する。俺は俺をコピーし続け、その俺のコピーが無数のコピーと解け合い、新しいマグマになっていく...」というMの最終の台詞。この部分は、
人間はここではないどこかを求めるのが現実ですから、ここではないどこかをここに読み替えることが一般化してくればやはり閉塞してくるし、つまらなくなってくる。 (p223 宮台真司と土屋豊の対談, 《幽閉者テロリスト》リンディホップ・スタジオ編、愛育社)
という指摘のとおり、現代におけるアクチュアルな感覚としては修行であるとか、それこそオウム真理教的/セカイ系的な自己=世界の同化言説に回収されてしまう危険性があることは注意するべきだろう。
しかし、これは神山健治監督の《攻殻機動隊—Solid State Society》における高齢化社会と次世代の解放という主題と接続しえる箇所として見なせるのではないだろうか。士郎正宗独特のサイバー・リアリズムを神山が手がけた三作とも、テロリストを主題にしており、第一作(Stand Alone Complex)では笑い男と呼ばれるハッカー、第二作(S.A.C. Second Gig)では電脳ハブと化すことによって群衆の抵抗運動を指揮するが国家に操作されていた男クゼを描いた。そして第三作では、草薙素子という主人公自身のオルター・エゴ、つまり派生人格としての叛乱官僚が「傀儡使い」を名乗り、税金の自動吸収システムと化した高齢者介護ネットをハックし、児童虐待の被害者である子供たちを大量に誘拐し、国家による洗脳から保護するために、ただ死を待つのみの動物と化した老人たちに対する生存理由として送り込むという大規模犯罪を、違法性と倫理性の狭間で見事に描いている。(ちなみに第ニ作は、外国人難民の群衆があくまで被操作対象としてのみ描かれている点、原作との不毛な円環構造などによって反動的な駄作だと筆者は以前ユリイカで評したが、この第三作の独創性に対しては敬意を表したい)
傀儡使い—今までに多くの意思と並列化をしてきたんだ。集団的深層無意識が一人歩きしはじめても、おかしくはない。これでソリッド・ステイト(素子)は完成する。我々は消滅する媒介者となって次のソサイエティーに介入していこう。(《攻殻機動隊SolidStateSociety》)
ここには、被操作対象の、脱社会化するほかない諸個人の現在のステイタスの先が言及されている。官僚が国粋主義者である政治家ムライの陣中に忍び込み、内部から国家システムをハックするというテロリズム。
実は誘拐されていた子供たちは児童虐待の犠牲者であり、主人公たちが属する公安9課の捜査はかえって子供たちが危険な親元に返されてしまうという転倒も描かれている。つまりこのテロリズムはただただ国家に対するテロル=恐怖であり、誘拐というれっきとした犯罪行為を介してであれ、子供たちを国粋洗脳システムから保護し、もはや財産を国家に没収されるのを待つだけとなった半死体の介護ネット老人たちに再度社会へのコミットメントの契機を与えるという倫理性に貫かれている、新種のものではないだろうか。素子によって構成される空間—広義でのネットワーク—がまだまだ倫理的な可塑性に満ち溢れていることを、このような両義的緊張感によって描いている作品はまだ他に知らない。
足立がもろもろの危険を承知で幽閉者のヨミに「テロリスト」と当てたのは、彼がテロリストと呼ばれる人々に見てとる正当性の回復を期待してこそのことであるのは心情としては理解できる。だが、その一般公衆を死へと巻き込むことも包括するリアリティは、良くも悪しくも平和の温室に育った現代人には届かない。その意味で、神山が暗黙理に行なっているテロリズムの再定義にこそ現代人にはリアリティが生じるのだ。
だから、《幽閉者》のなかで足立正生が標榜するようなアナーキズムは、
もともと権力をきらう個性は、画一性のなかにのみこまれることをこのまない個性なのだ。そういう個性が革命の戦場からはなれたとき、つよい個人となって生きつづける。つよい個人とは、孤立して生きうる個人である。孤立して生きうる個人というものは、現代社会ではほとんど不可能である。わずかに、すでに確固たる地位を得た芸術家、自営農、浮浪人が、それにあたる。
個人主義的アナーキズムは今日、それらの人の思想である。(《アナーキズム 現代日本思想大系》、筑摩書房1964年刊、日本のアナーキズム・解説 松田道雄)
というものから、孤立を生まない可塑性の倫理性へと更新されなければならない。「確固たる地位を得た芸術家」による名人芸や孤立を称賛してはいけない。同時に浮浪人としての脱社会的存在を標榜しても死に細るだけだろう。
《攻殻機動隊 Solid State Society》の主人公は最後にこう漏らす:
規範のなかにいるときはそれを窮屈と感じるけど、規範なき行為はまた行為として成立しない。結局、堂々巡り。(《攻殻機動隊SolidStateSociety》)
むしろ、情報空間のなかでオートポイエティックな自営農(別所で展開予定)に成るにはどうすればよいのか。幽閉しようとする力に抗い、消失の欲望に抗い、媒介の悦びを増幅する、確定記述ネットのデータベースならぬ固有なプロクロニズムのアーカイヴとしての諸個人。全面的な情報戦という戦場において、プロパガンダという言葉は芸術という概念と共に日常化されるだろう。いずれにせよ、今後のネット自営農者が開墾しようとするコモンズは、広大である。
* 客観的にいって、この映画のDVDがそれほど売れるとは到底思えない。そこで、(数世代下の人間の)老婆心から、《幽閉者》のような低予算だが強度のあり、重要なフィルムは、それこそDVD販売への導線として、ネット上でクリエイティブ・コモンズのような適当なデジタル著作権ライセンスを付与した上で全編ダウンロード公開されてこそ、その核心が広く散種され、派生していくことだろう。このリアリティはしかし、古い体質の映画製作者たちに伝わるだろうか。
* この作品に併せて《チョムスキーとメディアーマニュファクチュアリング・コンセント》(や坂本龍一が曲を提供した《チョムスキー9.11》)と並列で観ることも興味深いことであろうことを付記する。









