ぬきがき:『国家とは何か』、萱野稔人 3/7
【なぜ読むのか】
オープンソース的運動は、国家の外側にある空間を想定した上で、その空間において諸個人の権能を最大化しようとするもの、といえる。
トランスナショナルな運動の特徴点を考察する上で、ネーション=ステートの包括的に理解しようとすることは重要である。
【第三章:富の我有化と暴力】を読む...
有益であると判断されるものを自分のものとすることが、敵と友の区別を生じさせ、国家を出現させるのである。
有益であると判断されるものとは、いわゆる富のことである。暴力はあらゆる文脈を無視して富を手に入れることを可能にする。
これは、富が物質的なものであることからくる必然的な帰結である。p95
それは、なんらかの富を「産出すること(production)」にかかわっているのではなく、産出された富を実力によって「我有化すること(appropriation=専有)」にかかわっている。p96
ここには、富の我有化と暴力の組織化との循環運動があるだろう。p97
D: autopoiesis of the state based on feedback loop between appropriation of wealth and organization (orchestration?) of violence
〈租税について〉そのレジームをドゥルーズ=ガタリは「捕獲装置」とよぶ。それを特徴づけるのは、「捕獲する権利を制定しながら捕獲するという暴力」にほかならない。p100
暴力の格差が税の徴収に先だつのである。、、、それは「国家の暴力にさらされるぐらいなら税をおとなしく支払ったほうがいい」という意味での同意でしかない。
ポール・ヴィリリオは、国家を「軍事的捕獲者」と規定している。p102
国家にとって「軍事的な保護」が意味するのは、他のエージェントによる攻撃からその土地におけるみずからの暴力の優位性と富の徴収の権利をまもること以外ではない。p104
国家は「保護するがゆえに拘束する」のではない。逆に、「拘束するがゆえに保護する」のである。住民の保護とは、あくまでも支配と富の収奪から派生してくる副次的な活動なのである。p105
「人びとを平和にむかわせる諸情念は、死への恐怖である *トマス・ホッブス 『リヴァイアサン』p107
人びとの力が同一人格の意志へと統一されるという事態は、「各人体各人の信約によってつくられる」。つまり各人が自らの力を特定の人格の意志へと移譲するということを互いに信約し合うかぎりで、共通権力はなりたつのである。
「相互信頼による信約は、いずれかの側に不履行についての恐れがあれば無効である」 p108−109
住民のあいだの合意や信約がなりたつのは、かれらを超えた強制力を背景としてのみだ。p110
「設立によるコモンーウェルス」においては、住民たちの信約によって実力が特定の人格のもとに蓄積される、つまり信約が暴力の格差をうみだす。これに対し「獲得によるコモンーウェルス」においては、暴力の格差こそが信約をなりたたせる。信約が暴力の優位性を根拠づけるのか、反対に暴力の優位性が信約を根拠づけるのかという違いが、ふたつのコモンーウェルスを区別する。p111
国家が自らのために守るように拘束される諸規則ならびに恐怖と尊敬との諸原因は国法の領域に属さずに自然法の領域に属する。 *スピノザ 『国家論』 p114
スピノザが国家論において契約の概念を用いることをやめたのは、むしろホッブズ契約論に含まれていたひとつの回路を徹底した結果として考えられるべきなのである。p116
4.所有/治安/安全
所有権はつねに「国家以外のエージェントが住民の富を奪うことはできない」というかたちで設定される。国家が規定する不当な行為のなかには、こうして「所有に対する侵害」のカテゴリーが必然的に含まれることになるだろう。
まず徴収という出来事があってそれが所有の観念を生じさせる。
スピノザ『エティカ』: 自然には、とくにこの人間の所有物であって、あの人物の所有物でないと言いうるようなものは何も見いだされない。むしろすべては、あらゆる人の所有物なのである。このようにして自然の状態では、各人に対してその所有を認めようとしたり、あるいは本来の所有であるものを、あるものから奪い取ろうとするような意志は、まったく考えることができない。 p120
富を徴収する暴力を背景にしてはじめて、特定のものが特定の個人に帰属するという事態が確立されるのである。
「私有制とは、国家による公的所有制を前提に」する。 D=G
*ロック『市民政府論』の考え:労働によって生産されたものは、それを生産した人の所有になる。人びとはみずからの生産物に対する所有を保護してもらうために、その生産物の一部を国家に支払うというわけである。
自然状態の終息は、国家だけが富を我有化するために暴力に訴えることができるという事態の確立と切りはなせない。
所有の成立とはだから、暴力の実践が支配の関係へと構造化されることにほかならない。p123
治安とはなによりもまず国家にとっての概念だということ。p125
国家はみずからの保全と利益にかかわるかぎりでしか、住民の安全に関心をもたない。p126
>相関性はある。住民にとって好ましい帰結をもたらすこともある。
とはいえ、こうした相関性を介しても、国家にとっての治安と住民にとっての安全は完全に一致することはない。両者のあいだには暴力をめぐる格差と非対称生がつねにのこるからだ。その格差と非対称生こそが国家の存立基盤である以上、治安と安全との不一致は原理的なものである。p127
Etienne Balibar: securite de l'Etat / surete du citoyen
国家の形態に対して規定的に作用するふたつのファクターが導きだされるだろう。そのふたつのファクターとは、徴収される富が生産される仕方と、物理的暴力の行使をささえるテクノロジーである。
〈しかし〉国家の形態はそれらのファクターの単なる受動的な反映ではない。
それは固有の運動体に対する〈条件としての規定性」としてである。
p129−130
ピエール・ブルデュー「国家精神の担い手たち」:国家なき社会においては・・・暴力の行使を社会内部で明確に同定された特別の集団に委託した例はない。したがって個人的復讐や自衛の論理をまぬがれることはできず、そこから悲劇の問題が生まれる。p131
国家のない社会とは、暴力の持続的な組織化をはばむような暴力のあり方が優勢になっているような社会であると考えることができる。p132
組織化へとむかう暴力のあり方と、それをはばむような暴力のあり方との関係、国家装置と戦争機械の関係である。p132
ピエール・クラストルによれば、国家なき社会は、国家の形成をあらかじめ妨げるようなメカニズムを内在させているのである。p134
そのメカニズムはまず、余剰生産物の蓄積をさまたげるような諸々の活動(蕩尽など)としてあらわれる。それによって特定のエージェントによる富の徴収は不可能となるだろう。またそのメカニズムは、当事者たちを制服によって統合するのではなく、逆に分裂させるような戦争の形態としてあらわれる。
〈しかし〉D=Gは、国家的なものとはまったく無縁な社会の存在という発想ははっきりと退けている。p134−135
D=Gは、国家的なものとはまったく無縁な社会の存在という発想をはっきりと退けている。p135
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