ぬきがき:『国家とは何か』、萱野稔人 1/7

【なぜ読むのか】
オープンソース的運動は、国家の外側にある空間を想定した上で、その空間において諸個人の権能を最大化しようとするもの、といえる。
トランスナショナルな運動の特徴点を考察する上で、ネーション=ステートの包括的に理解しようとすることは重要である。[draft]

【一章:国家の概念規定】を読む...

ウェーバーによれば、国家をなんらかの目的によって定義することはできない。というのも、あらゆる国家がかならず追求した普遍的な目的といったものはないし、また、たいていの目的はこれまでどこかの国家によって追求されてきたからである。p10

D: think of autonomy, autopoiesis of the state.

戦争にせよ、犯罪者の逮捕や処罰にせよ、暴力を行使する権限を持っているのは国家だけだ。p11

D: how not to counter but to over-ride violence.

ウェーバーによる国家の定義:国家とは、ある一定の領域の内部で正当な物理的暴力行使の独占を実効的に要求する人間共同体である。p12

D: how not to claim violence and still have polities.

国家と空間的領域とのこうしたむすびつきは、カール・シュミットが『大地のノモス』で強調した、政治的秩序と場所確定との不可分性にも通じるだろう。人間が住み、活動する具体的な場所でのみ国家は成立する。p14 

D: aphorism: one nation, no state? or stateless.

国民国家とは、暴力行使の独占を要求する集団と、それを要求される人々との関係が一つの共同体へと再編成されたときにはじめて成立するものである p16
国家とは、政治的団体のひとつの下位概念なのである。

D: think of resolution, continuity of POV

死刑における殺人が合法なのは、殺人を行う主体と、合法/違法を判断する主体とが同一であるからである。殺人を合法なものと違法なものとに分ける権限を持つもののみが、合法的な殺人をおこなうことができるのだ。p21

D: a-ethics of capital coupled with state.

暴力は、誰に対しても(知らない人に対しても)、そして特定の文脈に依存することなく(相手が試験を受けるかどうかにかかわりなく)、否定的なサンクションをくみたてることができるからだ。この意味で、暴力は命令にとっての、いわば普遍的な手段となる。...暴力を保持し行使する主体が、同時に決定の権限を持つ主体でもあるのと同時に、暴力そのものの働きに根ざしている。p23

D: "avec" et "dans" la violence.

命令にとって暴力が普遍的な手段となるのと同じように、暴力は、法が社会の中で貫徹され、維持されるための最終的なよりどころとなる p24

D: structural coupling of law and violence

ベンヤミン:法措定的暴力/法維持的暴力 p27

暴力に法的ステイタスを与えることは、暴力を行使しながら遂行的になされるほかないのである p30  国家は、暴力をめぐるヘゲモニー争いの勝者として位置づけられる p31
【暴力の正当性の問題】国家は、みずからの暴力のヘゲモニーをより強固にするために、強大な暴力を蓄積するだけでなく、その暴力が住民にとって道徳的に受け入れられるものとなるよう努力しなくてはならない。p31
合法化された暴力が道徳的に正当化されるとき、それと並行して、違法化された暴力も道徳的に不正化されるのである。p32
Etienne Balibar: 暴力の正当化に使われる [...] 唯一の [...] 論理的・修辞的なシェーマとは、予防的対抗暴力のシェーマである。p33
暴力を正しいものとして提示するためには、別のより危険な暴力(の可能性)をおさえ込むという図式に訴えるほかないのである。p34
したがって、国家必要論が述べるのとは反対に、国家は不正な力をおさえるために必要だから存在しているのではない。そうではなく、暴力をめぐるヘゲモニー争いの帰結として国家は存在しているのである。p35
正当性の観念だけでなく、正統性の観念も戦略として用いられる。
正統性においては、正しい行為主体の観念が暴力を根拠づける。p35
暴力が社会のなかで行使されるあり方のひとつとして国家は存在している。p37

D: 物理的直接的暴力ではなく、ネットワーク的情報的暴力(金融、イメージ、識別情報、同一性を対象とした)を脱/非国家的な運動として捉えられるか(後述の神学=ネットワークの指摘を参照)

「過去においては、氏族を始めとする多種多様な団体が、物理的暴力をまったくノーマルな手段として認めていた」(ウェーバー)暴力の実践のほうが国家の存在に先立つ。なぜそれまで多元的に存在していた暴力への権利は近代において一元化されたのか p39
国家を思考することは、暴力が組織化され、集団的に行使されるメカニズムを考察することにほかならない。国家をめぐる批判理論は、暴力の歴史の哲学とならなくてはならない。p40

関連文献:
◆ カール・シュミット 『大地のノモス』 Carl Schmitt "The Nomos of the Earth"
◆ ワルター・ベンヤミン 『暴力批判論』 Walter Benjamin's "Critique of violence"
◆ マックス・ウェーバー 『職業としての政治』、『社会学の根本概念』Max Weber "Politics as a Vocation", "Soziologische Grundbergriffe"
◆ ジャック・デリダ 『法の力』 Jacques Derrida "Force de loi : le fondement mystique de l'autorité"
◆ スピノザ 『神学・政治論』Spinoza "A theologico-political treatise"

* クラウゼヴィッツ、『戦争論』:「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」

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