【なぜ読むのか】
オープンソース的運動は、国家の外側にある空間を想定した上で、その空間において諸個人の権能を最大化しようとするもの、といえる。
トランスナショナルな運動の特徴点を考察する上で、ネーション=ステートの包括的に理解しようとすることは重要である。
【第二章:暴力の組織化】を読む...
ウェーバー:支配とは、或る内容の命令を下した場合、特定の人々の服従が得られる可能性を指す。(社会学の根本概念)p45
D: 命令ではなく、依頼というシェーマに移行する。暴力ではなく、影響力(puissance)というシェーマに移行する。可塑性はこうした量に対して中立的なのか。
『政治的なものの概念』のなかでシュミットは、政治的なものを固有に規定するのは敵/友の区別であると述べている。p46
D:中間領域の創出においては、敵/友の区別は有為ではない。ある文脈においては敵が、違う並行する文脈においては友であることが現実に起きるからであり、ひとつの主体を敵/友というように断定することはしないからである。しかし、鈴木健的にいえば、敵/友と区別する政治団体の方が「強い」のだろう。中間領域が強くなるにはどうすればよいのだろうか。
秩序と支配を確立するために暴力を組織化するという運動こそが、国家を出現させる。p47
敵・友・闘争という諸概念が現実的な意味を持つのは、それらが特に、物理的殺戮の現実的可能性とかかわり、そのかかわりを持ち続ける事によってである。戦争は敵対より生じる。敵対とは、他者の存在そのものの否定だからである。戦争は、敵対のもっとも極端な実現にほかならない。(シュミット、政治的なものの概念、p25−26)
監獄の誕生、フーコー:身体刑の見せ物的な残酷さも、こうした暴力の使用法からうまれてくる。p49 君主にとっての敵としての犯罪者。
権力は行為に対する行為、起こりうる、あるいは現実の諸行為に対する行為、未来または現在の諸行為に対する行為。
暴力は身体や物にはたらきかける。それは強制し、屈服させ、打ちのめし、破壊する。あらゆる可能性を閉ざす。受動性の極しか残されない。p50
ルーマン 「権力」 も同等の立場をとる。
D: Mais Deleuze, en citant Nietzsche et Leibniz, dit que le pouvoir est necessairement triste, car il restreint tout devenir et puissance des individus impliques.
脅された相手には、なおもいくばくかの能動性が残されている。p51
D: 権力においては、一定の文脈という枠のなかで行為しうるという能動性があるという。これは自由論のようである。
フーコは権力の行使を、「たがいに相手の可能的な行為領野を構造化する仕方」として定義している。暴力による脅しとは、「相手の可能的な行為領野を」恐怖によって「構造化する仕方」にほかならない。p52
服従(支配)が目的の場合は、暴力は自律的な手段になりえない。暴力の行使可能性が利用される。
秩序が目的の場合は、暴力は自律的な手段になりうる。p55
アーレントにおいては、権力と暴力は対立する。「暴力について」p58
D: アーレントは権力をエリティスティックに肯定しようとするのだろうか。アウシュヴィッツを引き起こしたナチス=ドイツを権力として認めないのだろうか。
アーレントによれば、権力にとって本質的なのは「他者と一致して行為する」という点である。
ホッブズ:恐怖によって強要された信約は、有効である。(リヴァイアサン、229p)
その契約は、自然状態から国家が生成する根拠としての契約を指している。暴力による脅しとそれに対する服従への同意こそが国家の存立基盤になっているのだ。p66
ホッブズはこうした組織化を「人びとの力の合成」と呼ぶ。「人間の力のなかで最大のものは、きわめて多数の人びとの力の合成であ。。。る。したがって、召使いをもつのは力であり、友人をもつのは力である。なぜなら、かれらは合一された力であるからである (リヴァイアサン150−151p)
人びとの諸能力が根本においてはほとんど平等にできており、各人は他を圧倒するだけの暴力を単独で持ち合わせず、そうした圧倒的な暴力が発揮されるためには、必然的に、よりおおくの人びとの諸力が組み合わされ、合成されなくてはならない 71p
D: 「考える?そんなことは召使いに任せればいい!」(Villiers de L'Isle-Adam, "Axel") → マルチテュード。
国家の成立基盤には、暴力と権力のあいだの相乗的な関係がある。つまり、一方で権力は、暴力の組織化を可能にし、それによって暴力をより強大なものにする。と同時に、他方で暴力は、否定的なサンクションの発動可能性として機能することで、人びとから特定の行為をみちびきだし特定の行為関係を実現する権力のはたらきを補強する。国家は、暴力をつうじた権力の実践と、権力をつうじた暴力の実践との複合体として存在する。p74
暴力を集団化するこうした機制を、暴力の加工とよぶことができるだろう。p75
ドゥルーズ=ガタリは、無秩序で盲目的な暴力のあり方とむすびついた「戦争機械を制度的な枠の内部に組み入れる」ことのなかに、国家の本質的な契機を見いだしている。(千のプラトー481p)個々ばらばらな暴力への傾動が集団的・制度的な暴力の実践へと加工されることをつうじて国家は成立するのだ。p75
定理27 われわれは、われわれに似ているものがあると、それにたいしていかなる感情ももたないのに、それがある感情に動かされるのを想像される場合、ただそれだけで、それと似た感情に動かされる。スピノザ 『エティカ』第三部210p
D: 外人より同国人が殺されるほうが、より大きな同情を引き起こすこと。このことを裏切るのが翻訳者であり、媒介者なのだろうか。
類似とは、それがどれほど自明にみえても、客観的なものではなく、想像的なものである。類似が客観的にあらかじめ存在するから、感情の模倣が起こるのではない。それは、われわれの想像的なまなざしが何を類似として見いだすかということと切りはなせない。p79
渡辺彗『認識とパタン』類というものは全く勝手に集めた個物の集まりに一つの名をつけたにすぎず、これは徹底した唯名論であって、数学的基礎にたったものであり、これを打ち破ることはできないでしょう。/白人と有色人、日本人とオランダ人といった区別は客観的なものではなく、想像的なまなざしが見いだす類似の観念にもとづいた区別なのである。
スピノザ 『国家論』 ・・・国家すなわち最高権力に属する権利は、各人の力によってではなく、多数者—あたかも一つの精神からのように導かれる—の力によって決定される自然権そのものにほかならない。
多数者の力が「あたかも一つの精神からのように導かれる」ためには、想像的なものの力学をつうじて彼らのあいだで暴力が加工されなくてはならない。p80
ファシズムにおいては、国家は全体主義的であるというよりは、自殺的なのだ。 D=G Milles Plateaux p84
非難されるべきものは、いっさいの神話的暴力、法措定の、支配の、暴力である。これに仕える法維持の暴力、管理される暴力も、同じく非難されねばならない ベンヤミン 暴力批判論 45p
いっさいの領域で神話に神が対立するように、神話的な暴力には神的な暴力が対立する。しかもあらゆる点で対立する。神話的暴力が法を措定すれば、神的暴力は法を破壊する*同、59p
ベンヤミンは神的暴力を「血のにおいのない、衝撃的な、罪を取り去る暴力」として規定している。つまりそれは、いわゆる「暴力」として一般的に認められているものに対立するのである、と。p87
アーレントはこう述べていた、「もし目標がすぐに達成されなければ、その結果はたんに敗北では済まず、政治体全体に暴力の実践がもちこまれることになろう」と。これに対して、対抗暴力だけは例外だ、などということはできない。p90
暴力の加工は、非暴力の実践に先だつ。非暴力を暴力よりも根源的で自明なものとみなすことはできない。非暴力の自明生そのものが、暴力の加工によってあたえられる効果であるからだ。p90
*ノルベルト・エリアスの仕事:暴力が加工され、組織化されることではじめて非暴力的な空間が広がっていくという事態、そして諸個人は一定の条件の下ではじめて非暴力的に〈なる〉という事態を歴史的に考察した。
暴力の加工そのものをいかに〈加工〉していくのか。この問いこそが、暴力をめぐる政治の地平をくみたてるのである。