「畏るべき後生」の意味

CCJPインターンもお手伝いをさせて頂いた「著作権の保護期間の延長の問題を考える国民会議」のパネル・ディスカッションで感じたことを幾つか.


個人的には青空文庫を主宰される富田氏の言葉が印象深かった.青空文庫というアーカイブは6000作品以上の作品を収蔵する巨大なアーカイヴであり、個人的にも寺田寅彦の文章を幾つかここで入手し、読み、amazonで全集を購入したりしている.著作権の切れた文学作品をデータ入力し、ルビをふり、XHTMLと電子ブック形式にまとめ、校正を行ない、公開をするという仕事を継続することは決して易しいことではない.

富田氏は、インターネットの効能とそれに基づく新しい社会設計の重要さを強調されていた.なによりも、プロジェクトを開始する当初は海外に住む日本人や日本について学ぶ外国人がネットを通してアクセスしてくることは予想できたが、視覚障害者が文字データを音声出力するために役立つという予測していなかった状況を引き起こしたという話が興味深い.これはつまり、open accessが増幅するネットワークの偶有性の一例だ.Long tailとは商業における偶有性の一形式に過ぎないが、青空文庫のようなpublicなアーカイヴの権能はより広い社会的な繋がりを生み出す.

また、富田氏が紹介した芥川龍之介の「後世」というエッセイは世代を越えた偶有性にも通じるように思う.ここで芥川が「100年後の自身の作品は、どのように読まれるだろうか」というように、後世について想像を巡らしながら語っていることはgenerativityのことである.山形浩生氏が指摘したように、人は遺伝子(gene)以外にも模倣子(meme)を残すという発想が創造性に関係するのであれば、芥川のように自身の活動の痕跡が少しでも多くの「後世」(未来における、未知の世代)の手に取られるように願うのは想造を行なうものに共通する根源的な欲求だろう.
中上健次が《岬》の後書きに遺した「この混乱の振幅はあなたに届くだろうか」という読者への言葉を思い出す.ここには自身のコミュニケーションが成立するかしないかという「際」の、不安と期待の両方が感じ取れる.想造的な活動というのは常にこの中間層に位置づけられるのではないか.

中国には「後世恐るべし」という格言がある.これは自分より若い世代が持ち、自分には無い能力に敬意を払え、という意味である.どうも著作権延長賛成の人々はこれを「後の世の人間が無償で自分の作品を利用する状況を恐れよ」という意味に捉えそうな気がする.しかし、それは「恐れる」というよりは、自分には予測不可能なネットワーク偶有性の真価およびに後世の人間の想造力を「畏れよ」、というように言い換えてもいいとおもう.

(この想いは対象の人種、ジェンダー、年齢について無差別であるべきではないだろうか.少なくとも私は自分の死後何十年に渡って、自分の知らない子孫の生活のために著作権を保持させ、結果的に自身の作品の流通に制限がかかることを想像するのは「個人的」な意欲を削がれる.孫や曾孫、そしてそれ以降の子孫の事情など知り得ないし、結局他者である.私は中世の大名や財閥ではないし、家名というフレームワークを用いてアイデンティティを形成しようとは思わない、というよりは思えない.また、自分に子どもが出来たとして、その子どもが父親の過去の仕事によって養われるというのは哀れではないか.それはその子どもの独自の成長に大きく影響する外部要因となるし、精神的な負債になりかねない.必然性を伴って先代の仕事を当代が継承する可能性は当然いつの時代,どの文脈においても存在するが,初代に寄生するような二代目ほど惨めな存在はないとも思える.)

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